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国家の矜持−ベトナムの安全保障政策−【実業之日本フォーラム】
配信日時:2021/10/04 16:17
配信元:FISCO
ベトナムの存在感が増しつつある。オースチン米国防長官は、7月にフィリピン、シンガポール及びベトナムを訪問、ハリス米副大統領は、8月にシンガポールとベトナムを訪問した。国防長官がフィリピンを訪問したのは、フィリピンとの軍事協定(VFA : Visiting Force Agreement)維持を正式に合意するためであった。両者のシンガポール訪問は、1990年に締結した「基地提供協定」に基づき米海空軍の基地が存在し、P-8哨戒機や哨戒艇が展開していることから、両国の安全保障上の結びつきを確認するためであろう。しかしながら、ベトナムにはこのような協定は存在しない。副大統領と国防長官という米政府高官が連続して、ASEANの盟主とされるインドネシアではなくベトナムを訪問したことは、米国が同国を安全保障上極めて重要と判断しているためであろう。
ベトナムは、共産党を唯一の合法政党とする社会主義共和国である。1945年に建国の父とされるベトナム共産党のホー・チ・ミン主席が独立を宣言して以降、フランス及びアメリカと戦火を交えた。1954年に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とアメリカを後ろ盾とするベトナム共和国(南ベトナム)に分断され、20年を超える内戦(ベトナム戦争)に陥った。1975年4月の南ベトナムの首都サイゴンの陥落は、パリ協定に基づくアメリカ軍撤退後に南ベトナム政府が崩壊したものであり、アメリカの汚点ともいえる出来事であった。2021年8月のカブール陥落は、このサイゴン陥落を彷彿させた。
1976年の「ベトナム社会主義共和国」建国当初は、厳格な社会主義制度を維持していたが、頼みの綱であった旧ソ連及び中国といった旧東側諸国からの無償援助が先細りする中、配給制度が維持できず食料不足が拡大した。このため、1986年に、「資本主義経済の導入」、「国際社会との協調」、「国民に必要な産業への投資」及び「社会主義政策の緩和」を柱とする「ドイモイ」政策に転換した。この政策の下で著しい経済発展を遂げ、1995年にはアメリカと国交を正常化するとともにASEANに加入、1998年にAPEC、2007年にはWTOに正式加盟し順調に国際社会への復帰の道を歩んだ。
ベトナムと中国の関係は紆余曲折に富んでいる。冷戦期には「社会主義国同士の特別な兄弟関係」であったが、カンボジアを巡る対立から1979年に中越紛争が生起し、1980年代を通じ敵対関係にあった。1991年11月の両国の関係正常化宣言は、ベトナム軍がカンボジアからの無条件撤退を受け入れることが前提であった。
防衛研究所の庄司智孝アジア・アフリカ研究室長は、この時の教訓が以後のベトナムの対中政策を規定していると指摘している。その第1は「中国と全面的な対立関係となった場合、小国であるベトナムは身動きが取れなくなる」、第2は「社会主義国同士の特別な兄弟関係の終焉」、そして最後が「社会主義市場経済という中国モデルを採用することによる経済協力の強化」である。関係正常化後、懸案であった陸上と海上の国境が合意され、経済関係も緊密化した。2014年ベトナム統計総局の発表によれば、1位の中国は、貿易総額の19.0%を占め、2位の韓国10.3%をはるかに凌駕している。
蜜月状態であった両国関係に亀裂が入ったのは、2014年5月に、中国が一方的に石油採掘リグをパラセル諸島近海に設置し採掘を開始したためであった。ベトナムは、中国によるパラセル諸島支配の既成事実化の端緒と捉え、海上警察の船舶や漁船を派遣するとともに、外交ルートで中国に抗議した。更に、今まで例を見なかった市民による反中デモを黙認し、現場海域における中国法執行船の放水やベトナム漁船等への衝突を多くのメディアに公表するとともに、各種国際会議やシンポジウムにおいて対中非難等を繰り広げた。これらの対応が功を奏したのかどうか不明であるが、中国は2014年8月まで実施するとしていた採掘作業を「完了した」として、採掘リグを撤収し事態は収束した。
この採掘リグを巡る事件は、国際的に、同じ社会主義国であり強い経済的結びつきを持つ両国の争いとして注目を集めた。ベトナムにとって、中国とは政治、党、経済等でいかに緊密な関係を構築しても、中国政府の意思決定には何の影響も及ぼさないという限界を認識する契機になった。そのためベトナムはアメリカ、日本、インドといった国々と協力を強化するという全方位安全保障協力をより重視するようになった。2018年3月に、米空母カール・ビンソンがベトナム戦争終結後初めてベトナムのダナンに入港したことは、ベトナムの全方位安全保障協力の深化を象徴するものであった。
ベトナムの全方位安全保障協力は単なる対中ヘッジではない。国民には根深い対中不信感がある。オイルリグ事件後の2017年春のPew Research Centerの調査によれば、ベトナム人の88%が中国を「好ましくない(Unfavorable)」と回答している。この数字は、調査対象となった42カ国中最大である。この背景には前述した中越紛争だけではなく、幾度となく中国と干戈を交えた歴史があると思われる。更に、2015年のオイルリグを巡る中国との争いでベトナムが示した中国への毅然とした対応は、どのような相手であれ、国家主権を守り抜こうとする国家の矜持を示すものであった。筆者が過去意見交換したベトナム軍人は、「ベトナムは過去に、中国だけではなく、フランス、アメリカといった大国と戦い負けたことがない」との強烈な自負を持っていた。歴史的に見れば、幾度となく中国王朝の支配を受けているが、ベトナムの国家主権を守るという強い意志と、国家としての矜持は見習うべき点は多い。
2021年9月、ベトナムを訪問中の岸防衛大臣は、日越防衛首脳会談を実施し、両国の防衛協力が新たな段階に入ったことを明らかにするとともに、「日越防衛装備品・技術移転協定」が締結されたことを明らかにした。日越の防衛協力は、防衛省の能力構築支援事業の一環として2012年に潜水医学から開始され、その後に艦艇の相互訪問と親善訓練を積み上げてきた。両国の防衛協力の新たな段階の詳細については明確にされていないが、岸防衛大臣は、「今後艦艇分野を含めて、具体的な装備移転の実現に向けて協議を加速していく」、と述べている。
防衛装備の海外移転に関しては、2014年4月に新たな三原則が定められたものの、本格的な装備移転はフィリピンへの防空レーダーに留まっている。防衛装備の移転は、それに伴う訓練や維持整備といった分野における協力につながるものであり、艦艇、航空機といった装備の移転が行われれば、両国の防衛協力は一段と進展することが期待できる。
前述したアメリカのベトナム重視の姿勢は、この日本の動きと同調するものである。社会主義政権ではあるものの、南シナ海に面するという地理的特性に加え、約9,700万人の人口を持つベトナムの高い潜在能力を考慮すると、日米で進めている「自由で開かれたインド太平洋」構築のパートナーとして欠かせない国家である。更には、大国である中国との政治・経済関係のバランスをとりつつも、中国に示した国家としての矜持は、経済を梃とした中国の強硬姿勢に腰砕けとなりがちな他のアジア諸国と大きく異なる。今回の防衛協力が両国関係を更に緊密化する一助となることが期待される。
サンタフェ総研上席研究員 末次 富美雄
防衛大学校卒業後、海上自衛官として勤務。護衛艦乗り組み、護衛艦艦長、シンガポール防衛駐在官、護衛隊司令を歴任、海上自衛隊主要情報部隊勤務を経て、2011年、海上自衛隊情報業務群(現艦隊情報群)司令で退官。退官後情報システムのソフトウェア開発を業務とする会社において技術アドバイザーとして勤務。2021年から現職。
写真:ロイター/アフロ
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実業之日本フォーラム( https://jitsunichi-forum.jp/ )では、以下の編集方針でサイト運営を進めてまいります。
1)「国益」を考える言論・研究プラットフォーム
・時代を動かすのは「志」、メディア企業の原点に回帰する
・国力・国富・国益という用語の基本的な定義づけを行う
2)地政学・地経学をバックボーンにしたメディア
・米中が織りなす新しい世界をストーリーとファクトで描く
・地政学・地経学の視点から日本を俯瞰的に捉える
3)「ほめる」メディア
・実業之日本社の創業者・増田義一の精神を受け継ぎ、事を成した人や新たな才能を世に紹介し、バックアップする
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ベトナムは、共産党を唯一の合法政党とする社会主義共和国である。1945年に建国の父とされるベトナム共産党のホー・チ・ミン主席が独立を宣言して以降、フランス及びアメリカと戦火を交えた。1954年に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とアメリカを後ろ盾とするベトナム共和国(南ベトナム)に分断され、20年を超える内戦(ベトナム戦争)に陥った。1975年4月の南ベトナムの首都サイゴンの陥落は、パリ協定に基づくアメリカ軍撤退後に南ベトナム政府が崩壊したものであり、アメリカの汚点ともいえる出来事であった。2021年8月のカブール陥落は、このサイゴン陥落を彷彿させた。
1976年の「ベトナム社会主義共和国」建国当初は、厳格な社会主義制度を維持していたが、頼みの綱であった旧ソ連及び中国といった旧東側諸国からの無償援助が先細りする中、配給制度が維持できず食料不足が拡大した。このため、1986年に、「資本主義経済の導入」、「国際社会との協調」、「国民に必要な産業への投資」及び「社会主義政策の緩和」を柱とする「ドイモイ」政策に転換した。この政策の下で著しい経済発展を遂げ、1995年にはアメリカと国交を正常化するとともにASEANに加入、1998年にAPEC、2007年にはWTOに正式加盟し順調に国際社会への復帰の道を歩んだ。
ベトナムと中国の関係は紆余曲折に富んでいる。冷戦期には「社会主義国同士の特別な兄弟関係」であったが、カンボジアを巡る対立から1979年に中越紛争が生起し、1980年代を通じ敵対関係にあった。1991年11月の両国の関係正常化宣言は、ベトナム軍がカンボジアからの無条件撤退を受け入れることが前提であった。
防衛研究所の庄司智孝アジア・アフリカ研究室長は、この時の教訓が以後のベトナムの対中政策を規定していると指摘している。その第1は「中国と全面的な対立関係となった場合、小国であるベトナムは身動きが取れなくなる」、第2は「社会主義国同士の特別な兄弟関係の終焉」、そして最後が「社会主義市場経済という中国モデルを採用することによる経済協力の強化」である。関係正常化後、懸案であった陸上と海上の国境が合意され、経済関係も緊密化した。2014年ベトナム統計総局の発表によれば、1位の中国は、貿易総額の19.0%を占め、2位の韓国10.3%をはるかに凌駕している。
蜜月状態であった両国関係に亀裂が入ったのは、2014年5月に、中国が一方的に石油採掘リグをパラセル諸島近海に設置し採掘を開始したためであった。ベトナムは、中国によるパラセル諸島支配の既成事実化の端緒と捉え、海上警察の船舶や漁船を派遣するとともに、外交ルートで中国に抗議した。更に、今まで例を見なかった市民による反中デモを黙認し、現場海域における中国法執行船の放水やベトナム漁船等への衝突を多くのメディアに公表するとともに、各種国際会議やシンポジウムにおいて対中非難等を繰り広げた。これらの対応が功を奏したのかどうか不明であるが、中国は2014年8月まで実施するとしていた採掘作業を「完了した」として、採掘リグを撤収し事態は収束した。
この採掘リグを巡る事件は、国際的に、同じ社会主義国であり強い経済的結びつきを持つ両国の争いとして注目を集めた。ベトナムにとって、中国とは政治、党、経済等でいかに緊密な関係を構築しても、中国政府の意思決定には何の影響も及ぼさないという限界を認識する契機になった。そのためベトナムはアメリカ、日本、インドといった国々と協力を強化するという全方位安全保障協力をより重視するようになった。2018年3月に、米空母カール・ビンソンがベトナム戦争終結後初めてベトナムのダナンに入港したことは、ベトナムの全方位安全保障協力の深化を象徴するものであった。
ベトナムの全方位安全保障協力は単なる対中ヘッジではない。国民には根深い対中不信感がある。オイルリグ事件後の2017年春のPew Research Centerの調査によれば、ベトナム人の88%が中国を「好ましくない(Unfavorable)」と回答している。この数字は、調査対象となった42カ国中最大である。この背景には前述した中越紛争だけではなく、幾度となく中国と干戈を交えた歴史があると思われる。更に、2015年のオイルリグを巡る中国との争いでベトナムが示した中国への毅然とした対応は、どのような相手であれ、国家主権を守り抜こうとする国家の矜持を示すものであった。筆者が過去意見交換したベトナム軍人は、「ベトナムは過去に、中国だけではなく、フランス、アメリカといった大国と戦い負けたことがない」との強烈な自負を持っていた。歴史的に見れば、幾度となく中国王朝の支配を受けているが、ベトナムの国家主権を守るという強い意志と、国家としての矜持は見習うべき点は多い。
2021年9月、ベトナムを訪問中の岸防衛大臣は、日越防衛首脳会談を実施し、両国の防衛協力が新たな段階に入ったことを明らかにするとともに、「日越防衛装備品・技術移転協定」が締結されたことを明らかにした。日越の防衛協力は、防衛省の能力構築支援事業の一環として2012年に潜水医学から開始され、その後に艦艇の相互訪問と親善訓練を積み上げてきた。両国の防衛協力の新たな段階の詳細については明確にされていないが、岸防衛大臣は、「今後艦艇分野を含めて、具体的な装備移転の実現に向けて協議を加速していく」、と述べている。
防衛装備の海外移転に関しては、2014年4月に新たな三原則が定められたものの、本格的な装備移転はフィリピンへの防空レーダーに留まっている。防衛装備の移転は、それに伴う訓練や維持整備といった分野における協力につながるものであり、艦艇、航空機といった装備の移転が行われれば、両国の防衛協力は一段と進展することが期待できる。
前述したアメリカのベトナム重視の姿勢は、この日本の動きと同調するものである。社会主義政権ではあるものの、南シナ海に面するという地理的特性に加え、約9,700万人の人口を持つベトナムの高い潜在能力を考慮すると、日米で進めている「自由で開かれたインド太平洋」構築のパートナーとして欠かせない国家である。更には、大国である中国との政治・経済関係のバランスをとりつつも、中国に示した国家としての矜持は、経済を梃とした中国の強硬姿勢に腰砕けとなりがちな他のアジア諸国と大きく異なる。今回の防衛協力が両国関係を更に緊密化する一助となることが期待される。
サンタフェ総研上席研究員 末次 富美雄
防衛大学校卒業後、海上自衛官として勤務。護衛艦乗り組み、護衛艦艦長、シンガポール防衛駐在官、護衛隊司令を歴任、海上自衛隊主要情報部隊勤務を経て、2011年、海上自衛隊情報業務群(現艦隊情報群)司令で退官。退官後情報システムのソフトウェア開発を業務とする会社において技術アドバイザーとして勤務。2021年から現職。
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1)「国益」を考える言論・研究プラットフォーム
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